学校だより LIVE

野木沢小の教育や校長雑感をLIVEでお届けします

94 誰にでも優しい社会に

 これからの社会は、障害のある人もない人も、互いに、その人らしさを認め合いながら、共に生きる社会であるべきで、そういう社会を「共生社会」といいます。そういう社会を目指す考え方が、「ノーマライゼーション」です。障害のある人が、障害のない人と同等に生活し、共にいきいきと活動できる社会を目指すということです。

 先日、4年生が手話教室を行いました。講師は、実際に耳が聞こえず、手話を使って生活されているYさん。Yさんの家族は、みな耳が聞こえません。だから、日常生活の中でも、いろいろと工夫されていました。例えば、来客があった時、普通のチャイムは聞こえないので、来客が来たことが分かりません。そこで、チャイムを押すと、部屋の中で、明るく光るライトが設置されていて、それが光って来客を知るようになっています。目覚まし時計も、普通の時計の音では分からないので、枕の下に置いて、時間が来ると振動する時計を使っています。これまでの生活で困ったことは何か、という子どもからの質問には、情報が入ってこないことがあるという答えでした。東日本大震災の時も、Yさんのところには、一体何が起きているのか、何も情報が入らず、大変な思いをされたそうです。また、テレビや映画も、字幕があれば楽しめるのですが、まず、日本の映画は、ほとんど字幕はついていないそうです。だから、外国の映画を見るけれど、これも、吹き替え版には字幕はつかないので、最近、見られる映画が少なくなったそうです。他にも、新型コロナウイルスの影響で、マスクをつけている人が多くなり、それにより、相手の口元が隠れることで、何を言っているのか、分かりづらくなったという話もされていました。

 Yさんの話を聞いて、先程のノーマライゼーションの考え方からすると、今の社会は、まだまだ障害をもっている人には、優しさが足りないと感じました。他にも、よくテレビ番組によっては、字幕放送しているものがありますが、一見、耳が不自由な人のためにあるようですが、話を聞いたら、映像と音声より字幕がずれるために、見ていても内容がうまく伝わらないそうです。

 しかし、逆に、耳が不自由な人とコミュニケーションをとるために、有効な方法を紹介して下さいました。それは、スマホのテレビ電話機能を使ったものでした。そこに電話でつながると、手話通訳者が出てくれて、カメラの映像を通して、手話を通訳してくれたり、逆に、会話を手話に直してくれたりするサービスです。言い換えると、いつも身近に、手話通訳者をつれているようなものだと思いました。これなら、電話回線さえつながれば、いつでも、どこでも、手話を使って相手とコミュニケーションが取れます。素晴らしい仕組みです。ただ、残念なことは、このサービスは、Yさんが住んでいる郡山市に在住の方しか利用できないとのことでした。

 Yさんの話を聞いて、考えました。折角、そのような素晴らしいサービスがあるのだから、どこに住んでいても利用できるようになればいいのにと。テレビや映画の字幕については、私自身、耳が聞こえない人だけでなく、ちょっと耳が遠くなっている人にとっても、字幕があることで、どんな内容かわかり、助かるのになあと思っていました。つまり、障害がある人にとって優しい社会は、障害がない人にとっても、やはり優しい社会なのです。

 まだまだ、障害を持っている人にとって、今の社会はいろいろと問題がたくさんありそうです。そういう問題が早く解決して、障害があろうとなかろうと、誰にでも優しい社会になってほしいと改めて思いました。それにしても、今回印象深かったのは、耳が聞こえないYさんの明るい表情でした。きっと、生活していく中では、大変なことやつらいこともあるに違いありません。しかし、Yさんは終始笑顔を絶やしませんでした。そして、表情も豊かで、何より元気いっぱいでした。そんなYさんを見ていたら、こちらまで元気になる、そんな気がしました。

93 子どもたちへのメッセージ(インプット・アウトプット)

 それは、基本に立ち返ること。学習の基本は、聞くこと。まずは、どんなに難しいと思えることでも、我慢して聞く。私たちの身体は、面白いことに、同時に二つのことは出来ないようにできている。例えば、聞くことに集中していても、ちょっと、頭の中で他のことを考えた瞬間、話が耳に入ってこなくなる。だから、聞く時は、聞くことにだけ、集中する。ちょっとぐらい分からなくても、我慢して我慢して、聞く。聞く。聞く。そうすると、これまた不思議なことに、我慢して聞き続けていくと、不思議と、難しいと思っていた話が、少しずつ分かるようになってくる。少しずつ分かるようになってくると、もっともっと分かるようになってくる。そこまで行くまで、聞いて、聞いて、聞いて、聞く。

 次は、聞いて分かったことを、自分の身体の中から外に出す。分かったことを、言葉で話す。分かったことを、文字に書く。これを、アウトプットという。聞いて分かったことは、インプットという。学習は、聞いてわかったインプットしたことを、言葉や文字で身体から出すアウトプットして、初めて身につく。聞いて分かっただけでは、また、すぐ忘れる。大事なポイントは、アウトプットすること。ノートを取ったり、発表したりするのも、そういう意味がある。繰り返し、言葉で唱える活動には、そういう大事な意味がある。

 最後に、もう一度。やらなければならないことは、ただ、意味もなくやるのではなく、自分にとって、意味あるものにしてほしい、自分のためにも。

92 子どもたちへのメッセージ(どうせやるなら)

 9/29 陸上競技大会に向けて、6年生のみなさんへ。

 どうせやるなら、自分にとって意味あるものにしてほしい。時間と労力をかけただけの、成果を手にしてほしい。成果とは何か。それは、入賞する、しない ではない。入賞できたら、それはそれで素晴らしい。しかし、入賞することが、そもそも目的ではない。目的は、自分の持っている力の全てを出し切り、自己ベスト記録を出せたかどうか。これは、自分への挑戦。戦う相手は、昨日までの自分。毎日の練習を通して、自分の力をどれだけ伸ばせるか である。

 ルーの法則というのがある。自分の力を毎回、同じだけ出し切っても、実は、自分の力は伸ばせない。それは、同じレベルを維持してるだけで、伸ばすことはできない。自分の力を伸ばすために必要なことは、負荷をかけること。苦しくても、ちょっとだけ頑張って、負荷をかける。ちょっとだけ無理をする。そして、次の時も、ちょっとだけ頑張って負荷をかける。その次も、その次も。そうしていくと、その繰り返しで、負荷をかけた分が、いずれ自分の力に変わる。負荷をかけた分だけ、伸びるのだ。それなりの努力をしないで、力を伸ばすことは不可能なのである。そんな都合のいい話はないのである。しかし、それなりの努力を続けたら、必ず、力は伸びる。

 自分が精一杯、本気で、全力で練習に取り組み、本番も、自己ベストを目指し、それなりの結果を出せたら、それでよしである。そういう人は、他の頑張っている人を、賞賛できる。ねたみ、ひがみを口にする者は、自ら本気・全力で取り組んでいない証拠だ。そんな戯言(たわごと)は、気にする必要なし。

 どうせやるなら、自分にとって意味あるものにしたい。

 それは、陸上以外のことでも同じ。私たち人間は、得手不得手がある。得意なこと、苦手なことがある。例えば、学校の教科。国語が得意な人がいれば、算数が得意な人がいる。体育が得意な人がいれば、音楽が得意な人がいる。逆もしかり。理科が苦手な人がいれば、社会が苦手な人がいる。図工が苦手な人がいれば、英語が苦手な人がいる。
 そういうことは、あっても当然。問題ではない。問題なのは、どういう態度で取り組むかと言うこと。得意なことは、得意だから、意欲的に頑張れる。問題は、苦手なこと、苦手だから嫌いなことに、どう向き合うかということ。 
 残念ながら、小学校の教科は、必ずやらなければならない事である。やらずに済ませることは、できない。だから、どうせやらなければならないのだから、自分にとって、意味あるものにしたい。

 では、どうすればよいか。(次号へ続く)

91 子どもたちへのメッセージ(難きは尊し)

 いつ、いかなる時代になっても、大切なことは変わらない。それを「不易」という。私たち人間が、生きていく上で、大切な不易は、「難きは尊し」である。言い換えると、「難しいことこそ、価値がある」ということである。

 難しいこと、例えば、毎日、少しずつでも継続して積み重ねていくこと。つらくても、簡単に止めないこと。苦しくても、簡単に弱音を吐かないこと。うまくいかなくても、他人のせいにしないこと。文句を言わないこと。他人を馬鹿にしないこと。自分はだめだと、決めつけないこと。他の人に流されることなく、自分の信念を貫くこと。始めたことは、最後まで諦めずに、やり続けること。できなくても、簡単に投げ出さないこと。つらく、苦しい時こそ、奥歯を噛みしめて、耐えること。例え、どんな相手だろうと、すごいと思ったら、認めること。頑張っている人の足を引っ張るのでなく、その人を見習い、自分も負けずに努力すること。何事も、自分でよく考え、判断し、決断し、実行し、そして、最後は、自分でちゃんと責任を取ること。他人に甘えないこと。他人に優しくすること。自分に厳しくすること。その日の終わりに、今日の自分を振り返り、明日、自分がすべきことを考えること。すべての人に感謝すること。やってもらって当然と思わないこと。自分がしてもらったら、次は、自分が誰かのために、何かやってあげること。食べ物を口にする時は、感謝の気持ちを持つこと。一度しかない人生を、一瞬一瞬に、本気で、全力で生きること。笑顔で過ごすこと。今やらなければ、と思ったら、すぐに実行すること。自分がやらなければ、と思ったら、すぐに自ら動くこと。今、自分がどういう立場なのか、そして、今、自分は、何をしなければならないのか。常に考えること。

 もし、今日で自分の人生が終わりを迎えるとしても、自分は今まで本気・全力で生きてきた、だから、後悔することは何もない、と言い切れる人生を送りたい。

 これは、ちょっと極端だが、6年生のみなさんには、卒業式当日に、自分は今まで本気・全力で小学校生活を送ってきたから、もう、小学校でやるべきことはない。これからは、中学校で、本気・全力で頑張るだけだ、と堂々と言い切って、ここを卒業していってほしいと思っている。

90 子どもたちへのメッセージ「ある人の言葉より」

 ある人が、次のようなことを言っている。

 プロ野球の投手の中には、打者に打たれた時、二つの気持ちになるという。一つは、投げたボールを後悔する場合。もう一つは、さらに気持ちが燃え上がる場合。その二つの違いは何か。それは、どんな気持ちでそのボールを投げたかの違いだという。何を投げるかあれこれ迷ったあげく、中途半端な気持ちで投げた場合、それが打たれると、心底悔しくて、その後もずるずると気持ちを引きずってしまう。一方、覚悟を決めて、全力で投げ込んだ場合、それを打たれても、逆に、打った打者に尊敬の気持ちが生まれ、よし、次こそは打たれないぞ、とやる気がさらにみなぎってくると言う。

 やはり、中途半端はだめだ。中途半端は、人間を心底腐らせる。また、その人は、こんなことも言っている。

 真に恐いのは失敗することではなく、いい加減にやって成功することだ。

 成功すればいいのではない。また、失敗が本当にだめなのでもない。問題なのは、自分がやるべきことにどれだけ気持ちを入れて、本気・全力で取り組んだか、である。一生懸命取り組んだ結果、失敗しても、それで、何が問題だったのか、次はどうすればよいのかが、はっきりするから、きっとこの後は、いずれうまくいく。そして、何よりも、努力することや最後まで諦めずに頑張ることは大切であると学ぶことができる。しかし、適当に、いい加減にやって失敗したら、そこから何も学ぶことはない。しかし、それよりももっと最悪なのは、適当に、いい加減にやったのに、なんとかうまくいってしまった時だ。そうなると、なんだ、これくらいでなんとかなるのか、と気持ちも緩み、本来、大切な、努力することや、最後まで諦めずに頑張ること等を軽んじて、結果、おごり高ぶった心になってしまう。そして、いずれ、取り返しの付かない失態を引き起こすかもしれない。