学校だより LIVE

野木沢小の教育や校長雑感をLIVEでお届けします

136 「理解ある親」をもつ子はたまらない(「こころの処方箋」より)

 河合隼雄さんの書いた「こころの処方箋」という本を読んだ。河合さんは臨床心理学者である。臨床心理士は、心身の健康問題に取り組む患者を支援する立場である。その河合さんが、読む人に何かしら感じてもらえるような短いお話を55編載せてあるのが本書である。目次を見ると、いきなり、「人の心などわかるはずがない」という題がある。人の心を相手の研究されてきた方が、そう言い切っているところが、なかなか興味深い。それで、一通り見回してみると、?と引っかかった題があった。それは、「『理解ある親』をもつ子はたまらない」。私も一人娘を持つ身、ちょっと内容が気になった。以下、文中から抜粋である。

「(前略)子どもは成長の過程で、成長のカーブが急上昇する時がある。そういう時、子どもは、自分でも抑えきれない不可解な力が湧き上がってくるのを感じる。それを何でもいいからぶっつけてみて、ぶつかった衝撃の中で、自らの存在を確かめてみるようなところがある。そのとき子どもがぶつかってゆく第一の壁として、親というものがある。親の壁にさえぎられ、子どもは自分の力の限界を感じたり、腹を立てたり、くやしい思いをしたりする。しかし、そのような体験を通じてこそ、子どもは自分というものを知り、現実というものを知るのである。
 いわゆる「理解のある親」というのは、このあたりのことをまったく誤解してしまっているのではなかろうか。子どもたちの力が爆発するとき、その前に立ちはだかる壁になるのではなく、「子どもたちの爆発するのもよくわかる」などと言って、その実は、それをどこかで回避し、自分はうまく衝突を免れようとしているのではなかろうか。壁が急になくなってしまって、子どもたちはいったいどこまで突っ走るといいのか、どこが止まるべき地点かわからなくなる。不安になった子どもは、壁を求めて暴走するより仕方なくなる。(中略)しかし、本当のところ、子どもたちは法律の壁なんかではなく、生きた人間にぶつかりたいのである。(中略)
 厳密に言うなら、理解のある親が悪いのではなく、理解のあるふりをしている親が、子どもにとってはたまらない存在となるのである。理解もしていないのに、どうして理解のあるようなふりをするのだろう。それは自分の生き方に自信がないことや、自分の道を歩んでゆく孤独に耐えられないことをごまかすために、そのような態度をとるのではなかろうか。(後略)」

 私はこれを読んで、思い出したことがある。私は中学時代、自転車でソロキャンプしながら、一人旅をしたいと考えたことがあった。しかし、それは、親に反対され、断念せざるを得なかった。当時の自分は、うまくいくことしか想像していなかったから、きっと、実際はいろいろな困難な状況を味わうことになったのかもしれない。しかし、その時はそんなふうに冷静に考えられず、ただやりたいことが反対され、できなかったことが悔しかった。子どものやりたいことを尊重し、自由にやらせる子育てもあろう。しかし一方で、親として、駄目なものは駄目と厳しく言い放つ子育てもあるのだと思う。河合さんは、文中で次のようにも言っている。

「すもう取りは、ぶつかり稽古で強くなるという。せっかくぶつかろうとしているのに、胸を貸す先輩が逃げまわってばかりいては、成長の機会を奪ってしまうことになる。もっとも、胸を貸してやるためには、こちらもそれだけの強さをもっていなければならない。子どもに対して壁になれるために、親は自分自身の人生をしっかりと歩んでいなくてはならないのである。」

 子どもの成長にとって、一番のモデルは、やはり親なのだということである。そのモデルである親が、しっかりと人生を歩む姿を見せることが、子どもにとっては、大事なのだということなのだろう。自戒を込めて、受け止めたいと思った。

137 赤べこはがき

 来年の干支は、丑(うし)です。今回、年賀はがきのデザインの一つに、「赤べこ」が登場しました。


 私たち福島県民として、また、会津出身の私にとっても嬉しい限りですが、この「赤べこ」はがきのデザインされた方が、なんと会津出身と新聞で知って、さらに驚くと共に嬉しくなりました。
 このデザインをされた方は、切手デザイナー(こういう職業があるんですね)の中丸ひとみさんです。中丸さんは、会津若松で生まれ、若松市内の高校を卒業後、美術関係の学校に進学し、旧日本郵政公社(今の郵政グループ)に入社されました。そこで、主に記念切手のデザインをされているわけですが、日本郵便のキャラクターである「ぽすくま」の生みの親でもあります。

 年賀はがきのデザインは、例年、担当者が決まっているそうです。しかし、今年は、切手デザイナー全員によるコンペ形式で決めることになったそうです。そこで、中丸さんも参加することになりました。会津に育った中丸さんにとって、赤べこは身近な物で、来年の干支が丑年ということで、真っ先に「赤べこ」を思い浮かべたそうです。そして、赤べこと組み合わせたのが梅と凧。厳しい冬の環境でも花を付ける梅の力強さ、そして、空高く昇る凧で希望を表しているそうです。そこに、疫病退散の赤べこですから、今のコロナ禍の中、この年賀はがきをやりとりする人たちに、勇気と元気を与えてくれそうです。中丸さん自身、赤べこデザインが採用されて喜びと感謝を述べていました。そして、「この絵で福島県民のみなさんが明るい気持ちになり、少しでも元気になる応援ができたらと思います。」とメッセージを寄せています。
 年々、メールによるやりとりが増えてきて、年賀はがきで年賀状を出す人が減ってきているようです。今年は、コロナの影響で、遠方の方々とは正月に会えない人もいるかもしれません。今年は、年賀状で近況報告などする方が増えるかもしれないなあと思いました。

138 私の思い出

 今の子どもたちは、家に帰ってからや休日の日等、どのように過ごしているのでしょうか。そんなことを考えていたら、自分は子どもの頃、どうだったかと振り返ってみたくなりました。

 会津盆地を囲むように山がありますが、その一角の山の麓に、私の家はありました。子どもの頃は、近所の子どもたちが集まって、一緒によく遊びました。ある時、みんなで近くの山の中に探検に行ったことがありました。その時、森の奥に大きな人口の池を発見しました。こんなところになぜ池が?よく見ると、鯉がいっぱい泳いでいました。おそらく、鯉の養殖場みたいなところだったのでしょう。そうとは知らず、みんなで鯉を捕まえて遊んでいたら、怒られました。子どもの頃から、漫画は好きで、よく読んでいましたし、よく真似して描いていました。漫画雑誌の読者コーナーに、応募した漫画が一度掲載されたこともあり、すごくうれしかったことを覚えています。その頃、年賀状は、毎年、ゴム版画で手作りしていました。しばらくして、プリントゴッコなる印刷機械が出来てからは、それで作るのにはまっていました。実家の周りは田んぼだらけで、近くに小川も流れていましたので、田んぼの間の小川に網をかけて、フナやドジョウ、ザリガニなどをとって遊びました。小川で釣りもしました。餌釣りから始まって、毛針、ルアーと何でもやりました。自転車に乗って、家から何時間もかけて釣りにも出かけたこともありました。当時の会津は、今よりも雪が多く、冬になると、スキーで遊びました。東山温泉のところに、昔、ロープウェーがあって、それに乗って、背炙り山までスキーに行きました。行きはロープウェーに乗りますが、帰りは乗らず、山の中の細い道を、友達とつながって、猛スピードで降りていくのが、恒例になっていました。片側が崖という山道だったので、今思い出すとちょっと怖いのですが、先頭の子がバランスを崩して転ぶと、その後続は全員同じように転ぶしかなくて、全員雪まみれになって、みんなで大笑いするという、それが楽しくて毎回やってました。(次回へ)

139 私の思い出(続き)

 中学1年の夏休み、たまたま本屋で見つけた切り絵の本に興味を持ち、初めて切り絵の作品を作りました。500円切手に描かれていた金剛力士像をモチーフに、四つ切り画用紙大の作品に仕上げました。それから、切り絵の世界にはまっていき、高校では美術部に所属し、大学は卒業論文ではなく、卒業制作で切り絵の作品を何点も制作しました。その時、制作した作品は、「滝」をテーマにした切り絵で、福島県内のいろいろな滝を見に行って、当時はデジカメなどなかったので、何枚もスケッチして、切り絵の作品に仕上げました。今では身近なパソコンが、少しずつ出回ったのが、ちょうど大学時代で、大学に入学した時に、初めてパソコンを買いました。その頃のパソコンは、簡単なプログラムを自分で入力して、ゲームを作って遊ぶことができましたので、プログラムが載っている雑誌を買っては、次々に入力して遊んでいました。ですから、今のゲームがいかにすごいかわかりますし、それにはまってしまうのもうなずけます。

 自然の中で思いっきり遊んだり、漫画を描いたり、工作したり、自分の好きなことをして、夢中で過ごしていた子ども時代。その後の成長過程でも、ずっと続けていたことがあったり、新しく始めたことがあったりと、なかなかバラエティーだなあ、と我ながら思います。それも、その時々で興味があったこと。実に様々なことに手を出していたなあと思います。「あなたの長所短所は何か?」と聞かれた時、「熱しやすく冷めやすいところ」と答えています。自分では、いろいろなことに興味を示し、次々に関心事が変わることは、短所かもしれませんが、それが、結果的には自分の人生を楽しくしているから、それはそれでよしと思っています。そんな人生を歩みながら、実は、明日11月5日で、55歳になります。

 いつ、どんなことに興味を持つかどうかは、本人しか分かりません。それでも、何かしら興味を持ち、やってみようとすることは、自分の可能性を広げることや、自分の人生を豊かにすることにつながっていることも間違いありません。時代は変われども、一度しかない自分の人生を、自分らしく楽しく過ごせたら、それはそれで最高だと思います。そのように、子どもたちにも過ごしてほしいと思っています。

140 30歳の時

 あれは、教師になって7年目。30歳を迎えた時のことだ。その時、こんなことを考えた。自分が生まれてから30歳までの30年間。実に様々な出来事があり、とてつもなく長かった。それと同じだけの年数を、自分はこれから60歳の定年までの30年間、教師として働き続けるのか、と思ったら、気が遠くなったのだ。なんとも不謹慎な物の考え方だが、そんなことを思ったことを思い出した。それから、25年。振り返ってみれば、やはり、いろいろなことがあったが、それでも55歳を迎えた今、定年までは残り5年。改めて、時間の早さを思い知る。

 それにしても、本当にかわいい子どもたちばかりだ。朝、いつものように校長室にあいさつする時、「校長先生、お誕生日おめでとうございます。」と言ってくれる子どもたち。手作りの折り紙をプレゼントしてくれたり、学年で寄せ書きまでしてくれる子どもたち。朝、読み聞かせに入ったところでは、誕生日の歌まで歌ってくれた。素敵なGo!Go!の誕生日になった。

 さて、私だけでなく、子どもたち一人一人にも誕生日がある。今度は、私が、一人一人に「おめでとう」を言ってあげなければと思った。