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1. 136 「理解ある親」をもつ子はたまらない(「こころの処方箋」より)

投稿日時: 2020/10/30 野木沢小-サイト管理者

 河合隼雄さんの書いた「こころの処方箋」という本を読んだ。河合さんは臨床心理学者である。臨床心理士は、心身の健康問題に取り組む患者を支援する立場である。その河合さんが、読む人に何かしら感じてもらえるような短いお話を55編載せてあるのが本書である。目次を見ると、いきなり、「人の心などわかるはずがない」という題がある。人の心を相手の研究されてきた方が、そう言い切っているところが、なかなか興味深い。それで、一通り見回してみると、?と引っかかった題があった。それは、「『理解ある親』をもつ子はたまらない」。私も一人娘を持つ身、ちょっと内容が気になった。以下、文中から抜粋である。

「(前略)子どもは成長の過程で、成長のカーブが急上昇する時がある。そういう時、子どもは、自分でも抑えきれない不可解な力が湧き上がってくるのを感じる。それを何でもいいからぶっつけてみて、ぶつかった衝撃の中で、自らの存在を確かめてみるようなところがある。そのとき子どもがぶつかってゆく第一の壁として、親というものがある。親の壁にさえぎられ、子どもは自分の力の限界を感じたり、腹を立てたり、くやしい思いをしたりする。しかし、そのような体験を通じてこそ、子どもは自分というものを知り、現実というものを知るのである。
 いわゆる「理解のある親」というのは、このあたりのことをまったく誤解してしまっているのではなかろうか。子どもたちの力が爆発するとき、その前に立ちはだかる壁になるのではなく、「子どもたちの爆発するのもよくわかる」などと言って、その実は、それをどこかで回避し、自分はうまく衝突を免れようとしているのではなかろうか。壁が急になくなってしまって、子どもたちはいったいどこまで突っ走るといいのか、どこが止まるべき地点かわからなくなる。不安になった子どもは、壁を求めて暴走するより仕方なくなる。(中略)しかし、本当のところ、子どもたちは法律の壁なんかではなく、生きた人間にぶつかりたいのである。(中略)
 厳密に言うなら、理解のある親が悪いのではなく、理解のあるふりをしている親が、子どもにとってはたまらない存在となるのである。理解もしていないのに、どうして理解のあるようなふりをするのだろう。それは自分の生き方に自信がないことや、自分の道を歩んでゆく孤独に耐えられないことをごまかすために、そのような態度をとるのではなかろうか。(後略)」

 私はこれを読んで、思い出したことがある。私は中学時代、自転車でソロキャンプしながら、一人旅をしたいと考えたことがあった。しかし、それは、親に反対され、断念せざるを得なかった。当時の自分は、うまくいくことしか想像していなかったから、きっと、実際はいろいろな困難な状況を味わうことになったのかもしれない。しかし、その時はそんなふうに冷静に考えられず、ただやりたいことが反対され、できなかったことが悔しかった。子どものやりたいことを尊重し、自由にやらせる子育てもあろう。しかし一方で、親として、駄目なものは駄目と厳しく言い放つ子育てもあるのだと思う。河合さんは、文中で次のようにも言っている。

「すもう取りは、ぶつかり稽古で強くなるという。せっかくぶつかろうとしているのに、胸を貸す先輩が逃げまわってばかりいては、成長の機会を奪ってしまうことになる。もっとも、胸を貸してやるためには、こちらもそれだけの強さをもっていなければならない。子どもに対して壁になれるために、親は自分自身の人生をしっかりと歩んでいなくてはならないのである。」

 子どもの成長にとって、一番のモデルは、やはり親なのだということである。そのモデルである親が、しっかりと人生を歩む姿を見せることが、子どもにとっては、大事なのだということなのだろう。自戒を込めて、受け止めたいと思った。