学校だより LIVE

1. 170 地獄絵図

投稿日時: 2021/01/13 野木沢小-サイト管理者

 ちょっと怖いタイトルですが、みなさんは、「地獄絵図」を目にしたことがありますか。私は、白河市内のあるお寺で初めて見ました。とても興味深い内容の絵図だったので覚えていたのですが、実は、今回、会津で法要があった際、そのお寺で、また同じ「地獄絵図」を目にしたのでした。

 絵図の内容は、下の方に、一般的に知られている血の池や針の山などの地獄の様子が描かれています。そして、上の方には極楽浄土の様子が描かれているのです。そして、中央付近に、人が生まれてから、成長し、大人になり、そして、だんだん老いて、最後は死ぬという人の一生の過程が描かれています。私が、この絵図の中で、特に興味深いと感じたのは、絵図の中央にあたる場所に、おおきな円が描かれてあって、その中に、漢字が一字書かれてあったことです。みなさんは、その円の中にどんな漢字一字が書かれてあったと思いますか。

 その漢字は「心」です。白河のお寺の住職さんの説明では、ここに描かれている地獄絵図は、あの世のことではあるけれど、実は、人の心のことでもあるのだとおっしゃっていました。人は、その心持ち次第で、仏様にも鬼にもなるということです。なるほどと思いました。仏様の心とは、自分のことより、相手のことを思う気持ちのことです。相手の立場に立って、相手の気持ちに寄り添って、思いをはせる。一方、鬼の心とは、自分中心、自分がよければ、相手がどうこう関係ない、自分さえよければいいという気持ちです。

 みなさんは、こんな経験はないでしょうか。朝の通勤時、早く出勤したいのに、目の前に高齢者マークをつけた車がゆっくり走っていて、イライラするようなことが。この時、早く行きたいのに行けない苛立ちから、その車の運転手に文句を言いたくなるような気持ちは、まさに鬼の心ではないでしょうか。早く行きたいのは自分の都合。まさに、自分さえよければという気持ちです。一方、高齢者マークの車に気付いた時に、故郷の高齢になった親を思い出し、あせらないでゆっくり運転してね、とその運転手のことを気遣う気持ちは、仏様の心なのです。このように、人の心は、仏様にも鬼にも、すぐに変わってしまうものだと思います。

 学校生活の中でも、そのような場面はよく見かけます。ロッカーの物を取りに行く時、真っ先に自分の物を取りたくて、他の人と競ってぶつかって文句を言い合うような場面。これは、自分さえよければという気持ちです。一方、先に行った人が、他の人の分も取り出して、名前を呼んで渡してあげたりする場面。これは、他の人のことを考えた行動です。

 ある本に書かれていた地獄と極楽の話も、同じような場面でした。その話では、地獄も極楽も、どちらも同じような食卓があって、そのテーブルの上には、どちらも同じようにたくさんのごちそうが並んでいるそうです。ただ、変わっているのは、どちらの世界も食事をするのに使う箸が、三尺三寸の長さ、約1mぐらいの長い箸を使っているのだそうです。ここまでは、地獄も極楽も状況は同じです。しかし、なぜか極楽の人たちは、その食卓で、楽しそうに美味しく食事をして、みんなお腹いっぱいになっているのに、地獄の人たちはみな、文句を言い合い、だれも料理を口にできず、いつもお腹を空かせているのだそうです。一体、何が違うのでしょうか。

 それは、箸の使い方です。地獄の人たちは、みな自分が食べられればいい、自分さえよければいいという考えですから、その1mもある長い箸を使って、自分が食べたいものを自分で食べようとします。しかし、そんな長い箸を使って、料理を口に運ぶことはできないのです。途中で、他に人の箸とぶつかって、料理を落としてしまい、お互いに文句を言い合う。結果、誰一人お腹いっぱい食べることができず、テーブルの周りは落とした料理でぐちゃぐちゃというのが地獄です。では、極楽はどうかというと、ここでは、自分の箸で、テーブルの向かいの人の食べたいものを取ってあげているのです。お互いに、ぶつからないように気をつけながら、相手の食べたい料理を相手の口に運んであげているのです。だから、極楽では文句ではなく、「はい、どうぞ」「ありがとう」という言葉が飛び交います。そして、みんなでお腹いっぱい美味しい料理を食べているのでした。

 ある学級では、プリントを配る時、前の人が後ろの人へ「はい、どうぞ」と言って渡しています。もらう方は、「ありがとう」と言って受け取ります。その様子は、見ていて、とてもやさしい気持ちになります。「はい、どうぞ」「ありがとう」は、極楽の言葉、仏様の言葉なんですね。