学校だより LIVE

野木沢小の教育や校長雑感をLIVEでお届けします

99 陸上大会まで、あと1週間(続き)

だから、練習する時に、常に、本番を意識して取り組むことだ。
練習だから…という気を抜いた気持ちでは、正直やっても意味がない。
本番と同じような意識で、真剣に取り組む練習だから、意味がある。
例えば、幅跳び。
踏切のタイミングを練習の段階から、いつもベストな踏切で跳ぶ。
練習で、踏切が合ったり、合わなかったりでは、本番でも合わない。
それでは、本番でも全てファールで記録なしになってしまう。
10回跳んで、10回ともファールなしで跳べるレベルまで、練習で求める。
例えば、リレー。
バトンの受け渡しを、練習の段階から、ベストの受け渡しが出来るようにする。
練習で、うまくいったり、いかなかったりでは、本番でも危ない。
そのためには、常に、バトンの受け渡しは、渡す方も受ける方も、全力で走って行わなければ意味がない。
リレーの選手は、当日、予選があり、自分の種目があり、そして、その後、決勝がある。

スタミナがなければ勝負にならないのだ。
他の、100m、800m、1000m、ハードルでも同じである。
本番だけ出来れば良い、ではないのだ。
練習で出来ないことは、本番でも出来ない。
逆に、練習で出来ていれば、本番でも出来る。
練習の段階で、「よし、本番もいける」という手応えを持つくらいまでやる。

だから、練習から常に、本番をイメージして、本番と同じ気持ちで取り組む。
スタートする時は、自分の番を待つ時も、コールされた時のあいさつも、
スタート位置に着く時も、スタートしてゴールするまで、
全て、これが本番、という気持ちで、本番をイメージして取り組む。
当然、本気・全力100%。
そうでないと、自分はどれだけやれるのか、どこが問題なのか、
どこを直したら良いのか、そういうことが分からないから、
意味ある練習にならない。

どうせやるのだから、この陸上大会を、
自分の力がどれだけ伸ばせるのか、
自分は、本気・全力100%で、どれだけやれるのか、
前向きにチャレンジして、自分を変えていくチャンスにしてほしい。

最後に、前回、紹介した「むのたけじ」の言葉を、紹介する。

きのうは去った。あすはまだ来ない。きょうというこの日に、全力を注ぎ込もう。どんなにつまらなく思われる一日であろうと、どんなにつらい一日であろうと、きょうがなければあすはない。

全力をこめてやれば、失敗したって必ず何かを学びとる。一つ一つの仕事に全力をこめたからとて人間はすりへりやしない。力の泉が、かえって深くなる。いい加減にやるなら、はじめから手を出すな。中途半端、これこそは人間を底まで腐らせる。

一度も失敗しないことは、自慢にならない。それは、上手であるだけだ。10回失敗して11回たちあがるなら、事はすでに成就している。 

98 陸上大会まで、あと1週間

陸上競技の練習は、つらく、苦しい。
みんな、それを分かって、取り組んでいると思う。
前に話したが、つらく、苦しい分だけ、自分の力になっている。
それは、間違いない。
だから、つらく、苦しい練習も、
自分の力がついていると信じて、頑張ってほしい。

陸上競技は、孤独との闘いでもある。
競技中は、みな、たった独り、孤独だ。
競技中は、独りぼっちで、闘わなければならない。
だれも、助けてはくれない。
だから、応援の声が力になる。
独りぼっちで闘う不安な気持ちも、みんなの励ましの声で支えられる。
自分を応援してくれる仲間の存在が、くじけそうになる気持ちを支えてくれる。
仲間が応援してくれるから、もう少し頑張ろうという気持ちになる。
例え、自分の競技が終わっても、独りで頑張る仲間がいたら、みんなで全力で応援して支えてほしいと思う。

一つの競技も、長くて5分。短ければ十数秒で終わる。
たったそれだけのために、何十時間もかけて、練習している。
言い換えれば、何十時間もかけてきた練習の成果を
わずか数分、数十秒で出し切らなければならないということだ。
その時に必要なものが、「集中すること」だ。
世界中のアスリートが、自分の最高のパフォーマンスをするために必要なのは、
「コンセントレーション」「集中すること」だと言っている。
テレビでも、アスリートが試合前に、音楽を聴いたり、独り静かに過ごしている 姿を見たことがあるだろう。
あれは、本番に向け、自分の気持ちを一つに集中させているのだ。
落ち着きなく、べらべらとおしゃべりしているアスリートなど見たことがない。
大切なのは、集中すること。
それこそが、自己ベストを出すための、重要な条件だ。

本番前は、緊張すると思う。
一回こっきりの本番だから、それは当然である。
緊張感はある程度必要なので、緊張することは構わない。
しかし、緊張しすぎると、よくない。
緊張しすぎると、身体に余計な力を入り、結果、力みすぎて、自滅する。
緊張したら、大きく深呼吸し、ジャンプしたり、屈伸したりして、身体を動かし、
力まないように、身体をほぐせば良い。
そして、練習してきたように、本番にのぞめば良い。
「練習は本番のように、本番は練習のように」である。(次回へ)

97 吉田富三博士の偉業

 国立科学博物館が、この度、重要科学技術史資料(未来技術遺産)に「吉田肉腫」を選んだというニュースが新聞に掲載されました。
 「吉田肉腫」とは、1943年に吉田富三博士が作り出した、移植可能ながん細胞のことです。この発見は、その後、国内初の抗がん薬創製に使用されるなど、がんに対する化学療法発展に大きな影響を与えました。また、がんを細胞レベルで研究することが可能なため、現在も各研究機関で活用されているそうです。
 吉田富三博士は、浅川町出身。同じ石川地区出身の素晴らしい偉人です。とても喜ばしい限りです。

 前回、お知らせしましたが、13日(日)吉田富三記念館で、石川地区児童理科作品展が開催されます。各学年の推薦、特選、準特選の作品が展示されています。今年は、巡回展は行われないため、他の学校の作品を見る機会は、この日しかありません。是非、お時間がありましたら、お出で下さい。

96 和久観音山鉱山跡で採石活動

 クラブ活動で、自然・アートクラブの子どもたちが、和久観音山鉱山跡を訪れました。私も行ってみたいと思っていたところだったので、同行させてもらいました。現地では、保存会の方々に案内してもらって、まず、坑道の中を見学させてもらいました。中は、ゆるやかな下り坂で、20m程進めました。中の気温は、ちょっと進んだだけで、すごくヒンヤリとしていました。両側の壁には、手彫りで掘り進んだ跡が見られました。坑道はその先、下に進んでいるようでしたが、そちらは、雨水がたまっていて進めませんでした。そこで、保存会の方から、壁に見られる鉱石の説明を聞きました。次に、外に戻って、近くの露天掘りの場所で鉱石の採集を行いました。子どもたちは、疑問に思ったことを質問したり、見つけた鉱石を見てもらったりしました。私も、小さな長石を見つけました。残念ながら、石英は見つかるのですが、水晶は…見つけられませんでした。この鉱山跡には、10月に6年生が見学に行く予定です。

95 小中連携授業研究会

 石川町では、先生方の授業力向上のために、小中連携の授業研究会を開催し、お互いに授業を見合い、研修する機会をとっています。今回、本校が会場となり、石川小、沢田小、石川中の先生方が参観にお出でになりました。授業は、第2学年岩渕先生にやっていただきました。教科は、国語科。説明文の単元で、授業を行いました。

 本校を含めると、総勢30名近くの先生方に授業参観していただきました。2年生の子どもたちは、そんなに多くの先生方に囲まれるようにして授業を受けたわけですが、みな、いつも通り、明るく元気に、そして、担任の先生と支援員の先生と一緒に、課題に向けて、最後まで一生懸命、考え、発表し、取り組んでいました。
 授業を終えた後、先生方は、小グループになり、本日の授業について研究協議の話し合いを行いました。そこでは、指導の在り方やワークシートなどの使い方、そして子どもたちの学び等について、様々な御意見をいただきました。その中には、2年生の子どもたちが、昨年度から見違えるほど、成長した姿に驚いたという声が多数聞かれました。それは、担任の先生と子どもたちが、これまで一緒に生活する中で、互いに向き合いながら、築き上げてきた証なのだと思いました。

 今回の授業研究会で、一番大変だったのは、紛れもなく、授業者の先生です。これまで、授業者として、指導案を考え、授業の準備を行い、前日まで計画的に子どもたちを指導してきました。他の人からは分からないところでの努力をされて、当日の授業を迎えたわけです。当日も多くの先生方に参観され、緊張しながら授業したと思います。だから、一番、学ぶことが出来たとも言えます。そして、授業をした者として、研究協議の御意見を聞き、指導助言の先生の話を聞き、きっと誰よりも、実感が伴って、それらを受け止めたに違いありません。

 学校の先生方は、毎日、毎日、多くの授業をしています。だから、自然と自分なりの授業スタイルが出来上がります。それは悪いことではありません。しかし、時々、今回のように誰か他の人に授業を見てもらうのは、すごく大事なのです。それは、教師の授業力は、他の人に見てもらう機会を通して、アップしていくからです。

94 誰にでも優しい社会に

 これからの社会は、障害のある人もない人も、互いに、その人らしさを認め合いながら、共に生きる社会であるべきで、そういう社会を「共生社会」といいます。そういう社会を目指す考え方が、「ノーマライゼーション」です。障害のある人が、障害のない人と同等に生活し、共にいきいきと活動できる社会を目指すということです。

 先日、4年生が手話教室を行いました。講師は、実際に耳が聞こえず、手話を使って生活されているYさん。Yさんの家族は、みな耳が聞こえません。だから、日常生活の中でも、いろいろと工夫されていました。例えば、来客があった時、普通のチャイムは聞こえないので、来客が来たことが分かりません。そこで、チャイムを押すと、部屋の中で、明るく光るライトが設置されていて、それが光って来客を知るようになっています。目覚まし時計も、普通の時計の音では分からないので、枕の下に置いて、時間が来ると振動する時計を使っています。これまでの生活で困ったことは何か、という子どもからの質問には、情報が入ってこないことがあるという答えでした。東日本大震災の時も、Yさんのところには、一体何が起きているのか、何も情報が入らず、大変な思いをされたそうです。また、テレビや映画も、字幕があれば楽しめるのですが、まず、日本の映画は、ほとんど字幕はついていないそうです。だから、外国の映画を見るけれど、これも、吹き替え版には字幕はつかないので、最近、見られる映画が少なくなったそうです。他にも、新型コロナウイルスの影響で、マスクをつけている人が多くなり、それにより、相手の口元が隠れることで、何を言っているのか、分かりづらくなったという話もされていました。

 Yさんの話を聞いて、先程のノーマライゼーションの考え方からすると、今の社会は、まだまだ障害をもっている人には、優しさが足りないと感じました。他にも、よくテレビ番組によっては、字幕放送しているものがありますが、一見、耳が不自由な人のためにあるようですが、話を聞いたら、映像と音声より字幕がずれるために、見ていても内容がうまく伝わらないそうです。

 しかし、逆に、耳が不自由な人とコミュニケーションをとるために、有効な方法を紹介して下さいました。それは、スマホのテレビ電話機能を使ったものでした。そこに電話でつながると、手話通訳者が出てくれて、カメラの映像を通して、手話を通訳してくれたり、逆に、会話を手話に直してくれたりするサービスです。言い換えると、いつも身近に、手話通訳者をつれているようなものだと思いました。これなら、電話回線さえつながれば、いつでも、どこでも、手話を使って相手とコミュニケーションが取れます。素晴らしい仕組みです。ただ、残念なことは、このサービスは、Yさんが住んでいる郡山市に在住の方しか利用できないとのことでした。

 Yさんの話を聞いて、考えました。折角、そのような素晴らしいサービスがあるのだから、どこに住んでいても利用できるようになればいいのにと。テレビや映画の字幕については、私自身、耳が聞こえない人だけでなく、ちょっと耳が遠くなっている人にとっても、字幕があることで、どんな内容かわかり、助かるのになあと思っていました。つまり、障害がある人にとって優しい社会は、障害がない人にとっても、やはり優しい社会なのです。

 まだまだ、障害を持っている人にとって、今の社会はいろいろと問題がたくさんありそうです。そういう問題が早く解決して、障害があろうとなかろうと、誰にでも優しい社会になってほしいと改めて思いました。それにしても、今回印象深かったのは、耳が聞こえないYさんの明るい表情でした。きっと、生活していく中では、大変なことやつらいこともあるに違いありません。しかし、Yさんは終始笑顔を絶やしませんでした。そして、表情も豊かで、何より元気いっぱいでした。そんなYさんを見ていたら、こちらまで元気になる、そんな気がしました。

93 子どもたちへのメッセージ(インプット・アウトプット)

 それは、基本に立ち返ること。学習の基本は、聞くこと。まずは、どんなに難しいと思えることでも、我慢して聞く。私たちの身体は、面白いことに、同時に二つのことは出来ないようにできている。例えば、聞くことに集中していても、ちょっと、頭の中で他のことを考えた瞬間、話が耳に入ってこなくなる。だから、聞く時は、聞くことにだけ、集中する。ちょっとぐらい分からなくても、我慢して我慢して、聞く。聞く。聞く。そうすると、これまた不思議なことに、我慢して聞き続けていくと、不思議と、難しいと思っていた話が、少しずつ分かるようになってくる。少しずつ分かるようになってくると、もっともっと分かるようになってくる。そこまで行くまで、聞いて、聞いて、聞いて、聞く。

 次は、聞いて分かったことを、自分の身体の中から外に出す。分かったことを、言葉で話す。分かったことを、文字に書く。これを、アウトプットという。聞いて分かったことは、インプットという。学習は、聞いてわかったインプットしたことを、言葉や文字で身体から出すアウトプットして、初めて身につく。聞いて分かっただけでは、また、すぐ忘れる。大事なポイントは、アウトプットすること。ノートを取ったり、発表したりするのも、そういう意味がある。繰り返し、言葉で唱える活動には、そういう大事な意味がある。

 最後に、もう一度。やらなければならないことは、ただ、意味もなくやるのではなく、自分にとって、意味あるものにしてほしい、自分のためにも。

92 子どもたちへのメッセージ(どうせやるなら)

 9/29 陸上競技大会に向けて、6年生のみなさんへ。

 どうせやるなら、自分にとって意味あるものにしてほしい。時間と労力をかけただけの、成果を手にしてほしい。成果とは何か。それは、入賞する、しない ではない。入賞できたら、それはそれで素晴らしい。しかし、入賞することが、そもそも目的ではない。目的は、自分の持っている力の全てを出し切り、自己ベスト記録を出せたかどうか。これは、自分への挑戦。戦う相手は、昨日までの自分。毎日の練習を通して、自分の力をどれだけ伸ばせるか である。

 ルーの法則というのがある。自分の力を毎回、同じだけ出し切っても、実は、自分の力は伸ばせない。それは、同じレベルを維持してるだけで、伸ばすことはできない。自分の力を伸ばすために必要なことは、負荷をかけること。苦しくても、ちょっとだけ頑張って、負荷をかける。ちょっとだけ無理をする。そして、次の時も、ちょっとだけ頑張って負荷をかける。その次も、その次も。そうしていくと、その繰り返しで、負荷をかけた分が、いずれ自分の力に変わる。負荷をかけた分だけ、伸びるのだ。それなりの努力をしないで、力を伸ばすことは不可能なのである。そんな都合のいい話はないのである。しかし、それなりの努力を続けたら、必ず、力は伸びる。

 自分が精一杯、本気で、全力で練習に取り組み、本番も、自己ベストを目指し、それなりの結果を出せたら、それでよしである。そういう人は、他の頑張っている人を、賞賛できる。ねたみ、ひがみを口にする者は、自ら本気・全力で取り組んでいない証拠だ。そんな戯言(たわごと)は、気にする必要なし。

 どうせやるなら、自分にとって意味あるものにしたい。

 それは、陸上以外のことでも同じ。私たち人間は、得手不得手がある。得意なこと、苦手なことがある。例えば、学校の教科。国語が得意な人がいれば、算数が得意な人がいる。体育が得意な人がいれば、音楽が得意な人がいる。逆もしかり。理科が苦手な人がいれば、社会が苦手な人がいる。図工が苦手な人がいれば、英語が苦手な人がいる。
 そういうことは、あっても当然。問題ではない。問題なのは、どういう態度で取り組むかと言うこと。得意なことは、得意だから、意欲的に頑張れる。問題は、苦手なこと、苦手だから嫌いなことに、どう向き合うかということ。 
 残念ながら、小学校の教科は、必ずやらなければならない事である。やらずに済ませることは、できない。だから、どうせやらなければならないのだから、自分にとって、意味あるものにしたい。

 では、どうすればよいか。(次号へ続く)

91 子どもたちへのメッセージ(難きは尊し)

 いつ、いかなる時代になっても、大切なことは変わらない。それを「不易」という。私たち人間が、生きていく上で、大切な不易は、「難きは尊し」である。言い換えると、「難しいことこそ、価値がある」ということである。

 難しいこと、例えば、毎日、少しずつでも継続して積み重ねていくこと。つらくても、簡単に止めないこと。苦しくても、簡単に弱音を吐かないこと。うまくいかなくても、他人のせいにしないこと。文句を言わないこと。他人を馬鹿にしないこと。自分はだめだと、決めつけないこと。他の人に流されることなく、自分の信念を貫くこと。始めたことは、最後まで諦めずに、やり続けること。できなくても、簡単に投げ出さないこと。つらく、苦しい時こそ、奥歯を噛みしめて、耐えること。例え、どんな相手だろうと、すごいと思ったら、認めること。頑張っている人の足を引っ張るのでなく、その人を見習い、自分も負けずに努力すること。何事も、自分でよく考え、判断し、決断し、実行し、そして、最後は、自分でちゃんと責任を取ること。他人に甘えないこと。他人に優しくすること。自分に厳しくすること。その日の終わりに、今日の自分を振り返り、明日、自分がすべきことを考えること。すべての人に感謝すること。やってもらって当然と思わないこと。自分がしてもらったら、次は、自分が誰かのために、何かやってあげること。食べ物を口にする時は、感謝の気持ちを持つこと。一度しかない人生を、一瞬一瞬に、本気で、全力で生きること。笑顔で過ごすこと。今やらなければ、と思ったら、すぐに実行すること。自分がやらなければ、と思ったら、すぐに自ら動くこと。今、自分がどういう立場なのか、そして、今、自分は、何をしなければならないのか。常に考えること。

 もし、今日で自分の人生が終わりを迎えるとしても、自分は今まで本気・全力で生きてきた、だから、後悔することは何もない、と言い切れる人生を送りたい。

 これは、ちょっと極端だが、6年生のみなさんには、卒業式当日に、自分は今まで本気・全力で小学校生活を送ってきたから、もう、小学校でやるべきことはない。これからは、中学校で、本気・全力で頑張るだけだ、と堂々と言い切って、ここを卒業していってほしいと思っている。

90 子どもたちへのメッセージ「ある人の言葉より」

 ある人が、次のようなことを言っている。

 プロ野球の投手の中には、打者に打たれた時、二つの気持ちになるという。一つは、投げたボールを後悔する場合。もう一つは、さらに気持ちが燃え上がる場合。その二つの違いは何か。それは、どんな気持ちでそのボールを投げたかの違いだという。何を投げるかあれこれ迷ったあげく、中途半端な気持ちで投げた場合、それが打たれると、心底悔しくて、その後もずるずると気持ちを引きずってしまう。一方、覚悟を決めて、全力で投げ込んだ場合、それを打たれても、逆に、打った打者に尊敬の気持ちが生まれ、よし、次こそは打たれないぞ、とやる気がさらにみなぎってくると言う。

 やはり、中途半端はだめだ。中途半端は、人間を心底腐らせる。また、その人は、こんなことも言っている。

 真に恐いのは失敗することではなく、いい加減にやって成功することだ。

 成功すればいいのではない。また、失敗が本当にだめなのでもない。問題なのは、自分がやるべきことにどれだけ気持ちを入れて、本気・全力で取り組んだか、である。一生懸命取り組んだ結果、失敗しても、それで、何が問題だったのか、次はどうすればよいのかが、はっきりするから、きっとこの後は、いずれうまくいく。そして、何よりも、努力することや最後まで諦めずに頑張ることは大切であると学ぶことができる。しかし、適当に、いい加減にやって失敗したら、そこから何も学ぶことはない。しかし、それよりももっと最悪なのは、適当に、いい加減にやったのに、なんとかうまくいってしまった時だ。そうなると、なんだ、これくらいでなんとかなるのか、と気持ちも緩み、本来、大切な、努力することや、最後まで諦めずに頑張ること等を軽んじて、結果、おごり高ぶった心になってしまう。そして、いずれ、取り返しの付かない失態を引き起こすかもしれない。